Q54:
ウイグル人がギリシャ的な民族になった理由を教えてください。 

A54: 

ウイグルは、ペルシャ・アラブ・トルコと地理的に繋がっており、ギリシャの影響を受けやすい環境であったこと。アレクサンダー大王によって、中央アジアにヘレニズム文明がもたらされたこと。ウイグルにいた数多くのギリシャの学者たちが、ウイグル人をギリシャの科学で教育したこと、などが大きな理由です。 

 ウイグルとギリシャとの関係が深かったことが分かる文献はたくさん残されています。 

 紀元前にギリシャ人によって書かれた『歴史』『地理』という本には、ウイグル関係の話がよく出てきました。11世紀に書かれたマホメット・カシュガリの『ディワムヌ・ルガティ・トゥルク』(トルコ語大辞典)には「ウイグルという言葉はギリシャ語です」という記述があります。15世紀、アルシュル・ナワイーはギリシャ哲学に関する本をたくさん書き残しています。16世紀にモハタサル・ヤタが書いた本『アレクサンダー大王の理想的国家』は、ギリシャ哲学をまとめたものでした。 



Q53:
15世紀にトルコ世界でトップの存在と言われるアルシュル・ナワイー氏の一番有名な作品について教えてください。 

 
A53:
アルシュル・ナワイー氏(1441〜1501)は、ウイグルだけではなくトルコ世界で哲学的・文学的・倫理学・歴史的な視点からもトップの存在と言われています。 

 彼の作品は60冊くらいあり、一番有名な作品は『チャハル・ディワン』と「ハミサー」です。5つの長編詩という意味です。「ハイラトゥル・アブラル」、「レイル・マジュヌン」、「サッディ・イスカンダル」、「パルハド・シェリン」、「サブアイーサイヤラ(七つの惑星)」5つの作品で、それぞれ一冊毎の長編の本になっています。その内容は基本的にアリストテレス、プラトン、ソクラテスに関わるものが多く、哲学的な視点から書かれていました。 

 当時は文学・哲学・科学の分野でギリシアとウイグルとの交流が進んでいました。15世紀のウイグルの学問はトルコ世界でトップの水準と言われています。中世ウイグル古典は内容的に人文主義・啓蒙思想で知られています。 

Q52:
アフメットジャン・カースミーは、東トルキスタン共和国の独立のために、多くの犠牲を払って全力で働いたリーダーであり最高の人格者でした。カースミーはウイグル民族の独立について、どのような考えを持っていたのでしょうか。 

 
A52:
アフメットジャン・カースミーは、ウイグルが植民地になったのはウイグル人のせいではなくウイグルの地理によるものであると考え、地理学を学ぶ重要性を訴えました。地理学を学ぶことによって、自分の生きている地域しか知らない狭い世界から自由になり、祖国への愛情が深まる。そして独立して生きることが夢となると考えました。

 カースミーの考える独立とは、民族が存続できることを大前提として、民族が政府を持ち、自分の国を自国の軍隊で守ることができる状態でした。

    敵と戦うには、意識的に敵のイデオロギーと対決する姿勢が必要であり、敵の情報戦略を把握して行動することが重要とカースミーは考えました。そのため、新聞・雑誌・ラジオなど出版メディア分野で働いている人達のことも、言葉で戦う一人の戦士として重視しました。

 ウイグル人は中国人のことを、敵・侵略者・非人間的存在の意味を込めて「ヒタイ」と呼びます。四、五千年前と同じ古い意識のヒタイに支配された奴隷状態を受け入れることはできない。ヒタイ達を追い出して祖国を取り戻すために、人間としての権利を求めて、死を恐れず最後まで戦い続けてほしいとカースミーは考えていました。

Q51:
トンユクック碑文に使われている文字は1番古いウイグル文字ですか? 

また、その他に使われていたウイグル文字についても教えてください。 


A51:
トンユクック碑文に使われている文字は突厥文字と言われています。 

トルコ文学についてヨーロッパでは、特にドイツとフランスで突厥学の研究がされています。学者たちはトルコの最初の文献がトンユクック碑文であり碑文に使われている突厥文字はフン民族が使っていたフン文字と同じであるとの結論を出しています。司馬遷の「史記」の中にも「フン民族の次に継承したのは突厥民族である。」と書かれていることから、北突厥あるいはウイグルで1番最初に使われた文字はフン文字である可能性が高いです。 

 歴史的に見てウイグル文字の問題は大きく、その理由の1つが地理的なもので北はロシア、南はインドに隣接している広大な土地のため地域によって文字が違っていました。紀元前2世紀には南のホータンでサンスクリット文字(古代インド文字)が使われていたり、一部の地域ではトファール人が住んでいたためトファール文字が使われていました。
ウイグル文字は、住んでいる場所によってそれぞれ違った文字でしたが共通点としては基本的にアルファベットを使っていました。 

長い歴史の中でウイグル文字は27回も変わっており、その中で最も長く使われた文字はチャガタイウイグル文字で5〜6世紀から700年間使われていました。また、12世紀から300年ほどの間は、漢字がウイグル文字の中に使われていた時代もあり、文化的にどのようなウイグル文字が使われていたのかを完全に把握することは容易なことではありません。 

Q50:
2000年前にウイグル人はどのように呼ばれていましたか? 


A50:
ウイグル人の歴史の一番最初は匈奴人(フン民族)でウイグル人の先祖であったと考えられています。

匈奴人(フン民族)は、中国の歴史(紀元前2000年、4つの神話時代での王国とのやりとり)の中で出てきます。

匈奴人(フン民族)はいつ登場していつまで続いたのか歴史学者で意見が違いますが、文献の中で最初に確認出来たのは、司馬遷の「史記」という本です。歴史の記録「史記」中で匈奴について細かく議論されていて、匈奴人(フン民族)の民族・文化 、またどういう人達なのかが書かれています。さらに突厥についても非常に細かく書かれています。

Q49:
現在のトルコ共和国の大統領が、スピーチでよく碑文のことを引用しているそうですが、それはなぜでしょうか? 


A49:
それは、1300年前の碑文の中に現在にも通じる教訓があるからです。突厥帝国の時代のトンユクックやコルティキンの碑文に、「国王やこの国を大事にしなさい。国を何よりも大切にしないと民族として生き残れません」ということが記されています。 

    かつてオスマントルコ帝国は、アラビア人、ドイツ・イギリス・フランスなどヨーロッパの人達によって滅ぼされた歴史があります。自分の国の大切さを理解しないと、いつか他の国に滅ぼされ支配されてしまう惧れがあります。
トルコ共和国の大統領は、国民に自分の国を大切にしましょうと訴えているのです。 

Q48:
アリストテレスの次に偉大な学者として「第ニの師」と呼ばれたアル・ファーラービー氏(870〜950)について教えてください。 


A48:
彼は、現在のカザフスタンのファラという所で生まれました。

 数学者、音楽家、医者でもあり、貴族のために哲学、音楽、倫理学、医学などを教えていました。
ファーラービー氏の哲学は、基本的にプラトンとアリストテレスの解釈でした。163冊以上も本を書いています。
存在論・神学論に関して、ギリシャ哲学とアラビア・イスラム哲学を合体させたのがファーラービー氏でした。

また、それまでの学問は基本的に自然学・論理学・倫理学の3つでしたが、ファーラービー氏はそれらをたくさんの学問に細かく分類しました。

世界全体を一つの国家として考える、世界市民・世界国家というカント的な近代的な発想のできる思想家で、反イスラム的・反アラビア的国家論を理想的な国家と考えました。

晩年に書かれた『有徳都市の住民がもつ見解の諸原理』は政治思想の代表的作品であり、有徳を持つことが重要と言っています。
950年、現在のシリア ダマスカスで暗殺されたと云われています。

Q47:
『幸福を与える智慧』の中で、ユスプ・ハス・ハジプ氏が理想としている国家とは、どのような国家ですか? 


A47:
ユスプ・ハス・ハジプ氏はユークリッド幾何学の影響を受けて、惑星の運動法則や天文学的に厳密に守らなければならない原理が、国家支配には必要であると考えました。その原理に基づいた法律によって国家を支配する法治国家を理想としました。 
君主も含めたすべての人が法の前で平等であること、国民一人一人が良い人間になること、リーダーである王は哲人国王であることが、最善国家であると考えました。 

 『幸福を与える智慧』は、カラハン帝国の王に捧げられました。王はこの本に書かれていることを実践して国家体制を徹底的に改革し、その当時、危機的状況に陥っていた国が救われたのでした。 

Q46:
ウイグルの倫理学、国家論に大きな影響を与えたアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の主題は何ですか? 

A46:
最高善の追究でした。最高善とは、いわゆる幸せではなく、本当に人間らしく生きること、より良く生きることであり、完成した人間を作ることでした。 

 アリストテレスは『政治学』の中で、「国家は最高善を追求する共同体である」と述べています。一人一人の完成した人間による共同体が、より良い国家を作るという思想でした。この思想は、11世紀のユスプ・ハス・ハジプや18世紀のカントの倫理思想にも大きな影響を与えました。 

Q45:
ウイグル人の文化・文明は、3つの柱の上に立っていると言われています。「3つの柱」について教えてください。 

A45:
ウイグル人の文化・文明の3つの柱とは、
①ウイグル古典文学  
②ウイグル十二ムカム 
③ウイグルのマニ教仏教に関する千仏洞窟(仏教遺産) のことです。

まず古典文学の中で哲学思想が誕生しました。その詩的なものがウイグルムカムです。ウイグル十二ムカムの72%が、ギリシャ哲学の継承者であるアルシュル・ナワイーのテキストになっています。 

670年代にウイグルウルフン王国が宗教をマニ教に変えました。善の神様アフラマズダと悪の神様アフラマンが戦って善の神様が勝つという善悪二元論的考え方のマニ教と、それまでの仏教が合体し、ウイグル独自のものとなりました。 

ウイグル古典文明は、ギリシャ・インド・中国、更にはペルシャ・イランなどから影響を受け、多様な文化が合体し形成されました。

Q44:
  ギリシャ哲学・ギリシャ医学を、ウイグル、トルコ、ウズベキスタンなど中央アジアに導入したイブン・シナについて教えてください。 

A44:
イブン・シナは、王様の宮殿に仕えていた医師でした。人間の体を直接観察し、手術もして徹底的に治療していました。 

貴族を治療するために使った文献を研究し、ギリシャのガーリーノーの「医学の諸原理」やヒポクラテスの医学の知識すべてをまとめて『医学の諸原理』を書きました。この本は、今でもフランスの大学で医学の教科書として使われています。 

中央アジアの多くの哲学者たちは、同時に医学者でもありました。西洋国家論や哲学は、ウイグル古代医学・ウイグル医学理論にまで直接影響を与えました。 

Q43:  
中世のウイグル国家論が書かれた有名な作品について教えてください。 

A43:
ニザム・ムルクの『政治書』、アミール・トムルの『国家論』があります。 

 『イスカンダル・ナマ』は、ギリシャ哲学の影響を直接受けてソクラテスやプラトンの名前がたくさん出てくる作品です。歴史書の『バーブル・ナマ』という作品もあります。 

 ウイグル人は理想的国家を作るために、ギリシャ哲学を最大限に利用しようとしました。 

15世紀のウイグル国家論は、ギリシャ化が進んだ影響で、ウイグルヘレニズム、中央アジアヘレニズム国家論になりました。

Q43:  
中世のウイグル国家論が書かれた有名な作品について教えてください。 

A43:
ニザム・ムルクの『政治書』、アミール・トムルの『国家論』があります。 

 『イスカンダル・ナマ』は、ギリシャ哲学の影響を直接受けてソクラテスやプラトンの名前がたくさん出てくる作品です。歴史書の『バーブル・ナマ』という作品もあります。 

 ウイグル人は理想的国家を作るために、ギリシャ哲学を最大限に利用しようとしました。 

15世紀のウイグル国家論は、ギリシャ化が進んだ影響で、ウイグルヘレニズム、中央アジアヘレニズム国家論になりました。

Q42:  
突厥の国を作って、731年に47歳で亡くなった王子コルテェキンの歴史的貢献が記されている、コルテェキン碑文について教えてください。 

A42:
コルテェキン碑文は732年に宮殿の中に作られたと言われています。 

 碑文の大きさは、高さ375㎝、東面と西面の上側122㎝、下側132㎝、北面と南面の幅 上側44㎝ 下側46㎝です。 

 古代突厥文字と中国文字(漢字)が使われており、東面は40行、南面と北面は13行ずつ書かれています。 

 文字が刻まれてから長い年月が経っているため石が風化して、文章としてはっきり読めない部分もあります。 

 碑文の文章を書いたのは、コルテェキンの孫のヨルテェキンと言われています。石に刻んだのは別の人でした。 
内容はわかりやすく、その時代の代表的文学作品として評価できるすばらしいものです。 


 

Q41:  

 3つの碑文(トゥンニュクック碑文・コルティギン碑文・トュルクビルゲカガン碑文)には、国王になる人はどのような人がふさわしいと記されていますか? 

A41:
 碑文には、哲人国王が国を治めるべきだと記されています。全ての人が哲人でなくても、一部の賢い人たちがいれば哲人として国をきちんと支配できるという、哲人国王・哲人国家を理想とするプラトンの『国家』に書かれた国家思想と同じでした。 

 人間とは何か、人間はどう生きるべきか、国家とは何か、最善国家はどうあるべきかについて、ソクラテスの探求と同じ思想が、ギリシャ哲学の影響を直接受けていない6〜8世紀の突厥にもあったことが、3つの碑文を通してわかります。 


 

Q40: 
 ドイツの有名なウイグル学者である ガバイン女史は、ウイグル文化をどのように定義していますか? 


A40:
ガバイン女史は、ウイグル文化を一つの部屋に例えると4つの窓が開けっぱなしのものであると定義しています。 

 

ウイグルには北からはロシア、東からは中国、西からはギリシア、南からはインドの様々な学問・文化が入ってきました。 

中でもインドから入ってきた仏教の影響は文化的にも言語的にも圧倒的に強いものでした。古代インド語はウイグル語の中に今も生きています。 

 ギリシアからは科学や医学、数学に影響したヘレニズム文化が入りました。 

 ウイグル文化は周囲の国の様々な文化が融合され、独自の文化として生まれました。 

Q39: 
古典は、時代を超えて民族に関係なく、人類にとっての貴重な知恵を教えてくれます。現代の私たちに大きな影響を与えた国家論に関する古典を教えてください。 


A39:
プラトン『国家』、ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』、J・S・ミル『自由論』『経済学原理』、福沢諭吉『学問のすすめ』などがあります。 

2500年前に書かれたプラトンの著作は、今の私たちにとっても必要な、人間はどう生きるべきか、国家とはどうあるべきかという根本的問題を提起しています。『国家』では、優秀な人一人が国を支配してよいと言っています。この考えは独裁国家・専制主義国家・全体主義国家の哲学的基礎になっていると、カールポパーは批判しました。実際に、中国・ロシアのトップは、これを悪用しています。 

 ベンサムは、ヨーロッパの思想を取り入れた国を作ろうとしていた明治時代の日本に大きく影響を与えました。 

 J・S・ミルは、自由主義•.民主主義の国を作るためには大人の市民を作らねばならない、そのために家庭教育・幼児教育が重要であるという考えを持っています。これは日本の教育にも影響しています。 

 福沢諭吉は、現在の日本の価値観の基礎を作った思想家として最も重要な人物です。『独立のすすめ 福沢諭吉演説集』という本もあります。 

Q38: 
6世紀中頃から8世紀中頃にかけて中央アジア地域で突厥の人々によって残された「突厥碑文」について教えて下さい。 


A38:
モンゴル中央部のオルホン渓谷にオルホン川とエンセイ川、2つの川がありその流域に数多くの突厥碑文があります。 

突厥碑文は、高さ3mを超える大理石に突厥文字、漢字で書かれ歴史的、伝記的な文章が刻まれています。 

有名なのが、「トゥニュウクック碑文」「コル・ティキン碑文」「ビルゲ・カガン碑文」の3つです。 

中でも「ビルゲ・カガン碑文」については今のトルコ大統領レジェップ・タイイップ・エルドアン氏もこの碑文の重要性を訴え世界の遺産として守っています。 

ビルゲ・カガンは東突厥の王でした。(在位716〜734) 

唐と突厥の2つの国が混乱状況にあった時人民をまとめ組織化しました。 

彼らはとても勇氣があり頭が良くて賢いという共通の特性がありました。 

ビルゲ・カガンは、法律や制度を作り国を管理して発展させました。 

Q37: 
突厥の歴史を知るための重要な文献といえるビルゲカガン碑文には、唐(中国人)とどのように付き合うのがよいと記されていますか? 


A37:
唐の人達は、金・銀・シルクなど高価な物を贈って甘い言葉をかけて近付いていき、相手が氣を許した後に、リーダー的存在の人達が力を発揮できないようにするという特徴があります。 

突厥の人たちが、唐からの甘い言葉や突厥にとって悪影響のあるアドバイスを信じてしまった結果、多くの人の命が奪われてしまうことがありました。 

 突厥が国の安全を守るためには、目先のことにとらわれず、なるべく離れた安全な場所に住み続け、距離を置いてつき合うことが大切だと碑文に記されています。 

 そして、この碑文をよく読んで、過去の出来事からしっかりと学びなさい、という記述が何度も繰り返し出てきます。 

1300年前に書かれたものですが、今の時代にも通じる内容です。 

Q36: 
古代イスラム教について教えてください。


A36:
古代イスラム教(十二~十六世紀)は、中央アジア・トルコ諸民族の倫理思想に重要な役割を果たしました。イスラム神秘主義とも云われてきました。「神=真実の私」であると考え現実世界を対象とした「本当の神」「本当の私」を意識・認識させる学問でありチャガタイウイグル語が使われていました。
本当の私、本当の神を認識するため、六十二歳までは経験を対象とした世界において、人類の義務として精一杯生き地上に貢献し、六十二歳を過ぎると(預言者マホメットが六十二歳でこの世を去ったため)、神に対する義務を果たすため地下に移り住み、祈りを通して哲学・倫理学・教育思想などを追求し作品も残されました。
十五世紀のイタリア文学とウイグル文学はともにレベルが高く、使う言葉・思想的深み・ヒューマニズム思想は神秘主義の視点から成り立っていました。イスラム世界の神秘主義は、ダンテはじめヨーロッパの思想に深く影響を与えました。

Q35: 
カラハン帝国を創ったソルタン・ソトゥプ・ブーブーラハン氏が、963年に国家宗教としてイスラム教を取り入れてから後の文学の特徴について教えてください。 


A35:
イスラム教になってからのウイグルの文化はすべて、トルコ的な面が弱まりアラビア的イスラム的側面が強くなっていきます。 

 文学においてもイスラム教の影響は大きく、コーランの言葉が重要でした。「守ってくれる 深く愛してくれる神様の名前から始まります」という意味の文章(アラビア語)が必ず本の最初に書かれているのが特徴です。神の概念と私の概念、神様と私が一体化しないと良い作品は書けない、ただ神様のみが助けてくれる、頼りになるのは神様しかいない、という思想がありました。 

この時代の代表的な作品『突厥語大辞典』マホメット・カシュガリ著、『幸福を与える智慧』ユスプ・ハス・ハジプ著の冒頭にもこの文章が書かれています。 

Q34: 
言語学的に代表作となった本『突厥語大辞典』が書かれた背景について教えてください。 


A34:
11世紀の頃、イスラム教の影響でアラビア語の名誉が圧倒的に強く、アラビア語は現在の英語のように支配的言語でした。同時にトルコ語も、アラビア語に負けない表現力や言葉の深みを持つ重要な言語でした。そのため、アラビア人はトルコ語を、トルコ人はアラビア語を学ぶ必要があり この本が書かれました。
著者マホメット・カシュガリ氏は、この本の中でこのように書いています。「預言者マホメットは、トルコ語を勉強することは時代の大前提であり、人間として必要なことであると言っている。もしこれが正しければ、トルコ語を勉強することは義務である。もしそうでないとしても、トルコ語を勉強することは必要なことである。」 

ここで言うトルコ語は、突厥諸民族すべての言語であり、トルコ語とウイグル語にほとんど違いはありません。 

ウイグル人は何万冊ものたくさんの本をウイグル語で書き残しています。ウイグル語を継承する者が、自分たちの文化を守ってきました。言葉は、文化・哲学・国家論の中心であり根源的なものです。母国語が失われない限り、民族は必ず生き残っていきます。

Q33: 
モンゴル共和国に数多く残る記念碑とは、どのようなものか教えてください。 


A33:
キョルティギン記念碑・ビルゲカガン記念碑・トゥンニューク記念碑などが有名です。

その中でも一番大きな記念碑がキョルティギン記念碑です。

モンゴルウランバートルから60kmの場所にあり、高さ3m,幅120〜130cmの大きな一つの石で出来ています。東西南北4つの面それぞれに古代突厥文字と一部中国語で書かれた、突厥文化の歴史的遺産となる記念碑です。特徴として大きな石の下にもうひとつ石があり「王族のものである」と記されています。

1300年もの間砂漠の乾燥にさらされていた為碑文の一部は消えている部分もあります。

 

1610年にロシア人のイワンという人がモンゴルまで行き発見しました。ただし当時は1300年前の記念碑に書かれた文字を誰も読む事ができず、1890年代に入ってデンマークのトムセンが、他の碑文も含め長い年月をかけて少しずつ研究し、2000年代に入りようやく現代トルコ語,現代ウイグル語として読めるようになりました。ノルウェー,スウェーデンのロニ文字に似ているところから解明され、トゥルクロニ文字と呼ばれています。

 

キョルティギンとは当時の王族の王様の名前で、碑文にはキョルティギンが16歳から戦争を行い、47歳で亡くなるまでの隣国との数多くの戦争について記されており、その中に人生の智慧の結論が永遠に残る言葉として書かれています。

『国を造るために何をすべきか』国の再建について書かれたキョルティギン記念碑の碑文は、支那との歴史的対話の物語であり当時の外交を詠むことができます。

記念碑とはその時代の突厥文化の象徴的なものと言えるでしょう。

Q32: 

  1986年にウイグルで出版された『我々の歴史的文字』という本の中に、ウイグル文字が27回も変わったことが書かれているということですが、なぜ それほど何回も文字が変わったのでしょうか? 


A32:
 文字が何回も変えられたのは、中国人がウイグル人を混乱させ、文字を読めないようにするためでした。 

 ウイグル支配の根本原理という内容でヤン・ゼンシンが書いた本の中にも「ウイグルにあれほどたくさんの古典があるということは、中国の支配者にとって怖いことだ。自分たちより文化的に高い人たちを支配するのは難しい。ウイグル人をできるだけ教育から遠ざけて、教育を受けられないようにすること。」ということが書かれています。 

  教育は、強い国家を作るために最も重要なことです。国を守るための本当の武器は、物としての武器ではなく、敵から決して奪われることのできない「人間の教育」なのです。 

  1912年中華民国がウイグルを支配するようになって以降1940年代まで、ヤン・ゼンシン、ジュン・シューレン、シュン・シサイの3人は、ウイグル人に教育を受けさせないようにしてウイグルを支配しました。 

Q31: 

 モンゴルで発見された「トウンユクック碑文」に書かれている内容と「トウンユクック」という人物について教えて下さい。 


  A31:
   「トウンユクック」は 、突厥(トルコ)を作った人達 クトゥルク・イリタリッシュ・カガン、クトゥルク・カパガン・カガン、クトゥルク・ビルゲ・カガンという三人の王様のアドバイザーでした。碑文には国を作る為に何をしてきたのか記述されており、また1300年前の人達の戦争の仕方が書かれています。712年にトウンユウクック自ら碑文の原文を用意して、716年に亡くなりました。ウイグル人、トルコ人の英雄です。 
※写真は、トゥンユクックがアドバイザーとして仕えたクトゥルク・ビルゲ・カガン王の石碑(記念碑)


 

Q30: 

『古代トルコ民族史研究Ⅰ〜Ⅲ』 

について教えてください。 


  A30:
  日本で最も有名なトルコ,ウイグル歴史研究の本で、護雅夫(もりまさお)氏によって書かれました。1967年に出版されています。

7〜9世紀の記念碑に書かれた歴史の中から、哲学,政治思想を読み取った事もこの作者の功績です。

ウイグルの理想的国家の可能性、古代トルコ,古代ウイグルに関する最も優れた本です。この本の内容に基づいて、トルコ,ウイグルの哲学,歴史の新しい解釈にチャレンジ出来ます。歴史の研究というよりも哲学の本として読むことができます。


 

Q29:
   ウイグル古典文学の歴史について大まかな流れを教えてください 。

A29:
  紀元前4世紀頃、フンの時代に文字文化が始まり匈奴文字が使われるようになります。それまでは、伝説神話の形で伝わってきました。 

 

6〜8世紀 突厥時代、記念碑に記された文献がウイグル古典文学の始まりといえます。 

 記念碑は現在もモンゴルに何百個もあります。突厥文字で書かれていますが、長い間この文字を誰も読むことができませんでした。デンマーク人のトムセンが長い年月をかけてこの文字を研究し、1890年代にやっと解読できました。 

 コルティキン記念碑・ビルゲカガン記念碑・トゥンニューク記念碑が有名です。突厥文字と漢字の両方で記されている記念碑もあります。 

 記念碑には、当時の国が君主制であり、国家の支配者は哲人国王でなければならないこと、君主の側には偉大な智慧のあるアドバイザーがいたこと、君主が国のために人生をかけて戦った功績や国の発展のための貢献などが記されており、君主の人生についての作品ともいえる文献です。 

 これらの記念碑は、トルコ系(突厥)諸民族の歴史・文化・国家思想がわかる歴史的考古学的に重要な証拠となる文化遺産といえます。 

 

9世紀には、カラハン・ウイグル・クジューという3つの大国が作られ、13世紀にかけて政治的 経済的に発展しました。同時に文学もこの時に発展します。ウイグル古典文学は、カラハン帝国の時代に最も盛んになりました。 

 代表的なものに、ユスプ・ハス・ハジプ著『幸福を与える智慧』、マホメット・カシュガリ著『突厥語大辞典』、仏教思想・仏教哲学が書かれた『金光明』、ドラマ的な大作の『マイトリシミ』などがあります。古代ウイグル文字、チャガタイウイグル文字で書かれたものがほとんどでした。 

 

ウイグル古典文学は、ギリシャの哲学や文学の影響を受けながら、プラトンやアリストテレスの影響を強く受けて、ウイグルの理想の国家論や人間の最善の生き方についての思想を形成してきました。 


 

Q28:
  東トルキスタン、ウイグル民族の象徴を表すオオカミについて教えて下さい。 

 

A28:
 ウイグルの伝説や神話にはオオカミの話しがたくさんあります。

トルファンで発見された本「ウグズナメ」には青い色のオオカミの話しが書かれています。

『ウグズハン(ウグズという帝国を作った人)が戦争を始める時に先導したのは青い色のオオカミだった。そのオオカミの先導に従い進むとウグズハンは勝利を収める事ができた。

もし、己の思うままに戦争をしていたら勝利を収める事はできなかっただろう』

 

また「アシナ部族の由来について」という神話には『ウイグル人と敵との戦いでウイグル人は殺され、男の赤ちゃんだけが生き残った。敵はその子の右脚を切り落としその赤ちゃんを山の中に置き去りにした。

そこにメスのオオカミが現れその子に乳を与えて育てた。

後にその子とオオカミが繋がり、そこからウイグル人は登場した』

という話しがあります。

ウイグル人にとってオオカミは特別です。

ウイグル民族そのものがオオカミを母として誕生したとする文献が数多くあります。

ウイグル人はオオカミを神として信仰していました。

オオカミの象徴的意味は「民族の勇氣」「民族の道徳」です。


 

Q27:
 トルファンで発見され、ウグズ帝国を作った君主についての話が書かれている本『ウグズナメ』が、現在フランスのパリ市の図書館にあるのはなぜでしょうか。 

 

A27:
 「中央アジアに優れた文化があり、その文化を本当に理解すると人類の秘密が解明されるかもしれない」という噂が1930年代のヨーロッパに広まり、多くの探検家がヨーロッパからウイグル地域に訪れました。そのときに、ヨーロッパの人達がウイグルの文献を自国に持ち帰りました。現在はイギリス・ドイツなどの博物館にあります。 

 日本からも大谷探検隊がトルファン・カシュガルなどを探検して、数多くのウイグルの本を東京に移しています。 

『ウグズナメ』も、このような経緯から海外に渡りました。神話的な一面はありますが、12世紀までのウイグルの千年以上の歴史・文化・国家論や18部族の名前の由来などが古代ウイグル文字で記されており、言語学的・民俗学的にも貴重な文献です。 


 

Q26:
第二回 東トルキスタン共和国の英雄と言われている アフメットジャン・カースミー大統領について教えてください。

 

A26:
アフメットジャン・カースミー大統領(1914-1949)は、ソ連の大学で倫理、政治、哲学思想について学びました。グルジャに戻ってからは社会活動家として人々に与えた影響は大きく、民衆の信頼と支持を得ていました。そのリーダーシップによってウイグルは独立を果たすことが出来ました。
 毛沢東、蔣介石、スターリンとの間で独立国を守る為に交渉をしていましたが、北京へ向う途中 飛行機事故で政府幹部と共に亡くなったとされています。中華民国(国民党)の裏切りにあい、暗殺されたのではないかと言われており、今も多くの疑問が残ります。
五年続いた東トルキスタン共和国の中心的人物で、今でも高く評価されておりウイグル民族の代表として心から尊敬されています。


 

Q25:
15世紀のウイグルの詩人,国家創造者、アルシュル・ナワイー氏が 一貫して強調した内容について教えてください。 

 

A25:

アルシュル・ナワイー氏(1441~1501)はウイグルに歴史的深みを与えました。15世紀のウイグルの哲学,思想史において最も重要な人物です。 

ウイグルの詩人,哲学者そして国家創造者、三位一体論の代表的実現者です。 

「民族のために良い行いをすることを一秒も忘れないようにしなさい。宇宙が世界が破滅しようとしても、君の目が見えなくなるとしても、自分のアイデンティティを生きることです。」 

「国のために民族のために良い行いをすることが重要です。もし山が崩れて頭にケガをしたとして痕が残ったとしたら、君の幸福を証明してくれます。(民族,国のために少しでも貢献しなさい) 

ケガした痕から誇りを感じなさい。君の幸せを証明してくれます。 

」 

ウイグルの倫理思想を生き貫く多くの著名人がたくさんいました。 

アルシュル・ナワイー氏は、その中の重要な一人です。 

ウイグル人が哲学的民族として第3回の共和国建国を青写真として生きる、精神的強みの源がここにあります。 

Q24:
東トルキスタン独立運動をしてきたなかで、東トルキスタンの伝統を守ってきた英雄が何人もいたとのことですが、代表的な方を教えてください。

A24: 

ムハンマド・アミン・ブグラ(1901-1965)です。「東トルキスタン史」という本の著者で、ウイグル民族の歴史的基礎を創ってきた歴史学者、詩人であり、哲学者、国家創造者でもあります。
1949年、東トルキスタンが中国の植民地になった時にインドに亡命しました。その後イスタンブールにて、ずっと東トルキスタン民族の独立運動をしてきました。人生をかけて国を作ろうとし方で、東トルキスタンの歴史をつくりました。

Q23:
1945年、グルジャに於いて、東トルキスタン共和国初代アリハン・トラ大統領によるスピーチがありました。その中に、「支那人は完全支配を企み陰謀を計画し、3つの方針で侵攻を始めた」とあります。
この3つの方針について教えてください。

A23: 

①政治的権力を剥奪し支配する。 

②民族の代表,経済的起業家達,代表的エリート階級の人物の拘束と排除。 

③教育的,文化的教養を受ける場をなくす。 

これら3つの柱をコントロールして、人間として生きることを剥奪しました。
 

Q22:
東トルキスタンの基礎を作った最も重要な人物と言われているクトゥルク•ハジ・シャウキとはどういう人物ですか? 

A22: 

1876年生まれで、アラビア語,ペルシャ語,トルコ語を良く理解出来た人。 

今でもイスラム世界では最も名誉の高いエジプトのアズハル大学に入学した。その後トルコのイスタンブールやウズベキスタン等で学術研究を続けてウイグルに帰った。社会構造を新しい教育思想(ジャディディズム思想)によって改革する方針で活動したトップのジャーナリスト。宗教的研究者。 

1933年7月、東トルキスタン憲法の基となる新聞『東トルキスタン生命』をタオピク、ダモッラと共に作った。これは今の独立運動の重要な基盤となっている。 

翌年1934年刑務所で盛世才(シュンシサイ)によって殺害される。 

Q21:
侵略が繰り返される困難な長い歴史の中で、ウイグル人を支援していた国はどこですか? 

A21:
日本です。 

ウイグル人は最も困ったとき、日本に来ています。 

かつて、大日本帝国は東トルキスタンの国をつくるため、戦力的プラン、資金と資源の援助、農業や工業、教育などいろいろな側面から力を貸してくれました。 

また、ウイグルと日本との交流は古く、800年前にウイグル人が作った最古の地図には日本があります。ウイグル人にとって、日本はとても大切な国です。そして、これからも日本人の支援が必要です。 

Q20 :
国旗が美しい東トルキスタンは、どうして新疆と呼ばれるようになってしまったのでしょうか?

A20: 

ウイグル人の祖国【東トルキスタン】の名が変わったのは、1884年、ズー・ズータンと言う漢人がカシュガルを侵略したときでした。その時、何万人もの大勢のウイグル人が殺されました。新疆(しんきょう)とは「新しい領土」と言う意味です。新疆となってから、ウルムチは当時、中国名でディーファーと名を変え、州県制度、漢語教育など、中国内地並みの行政機構が設立され、統治化が行われました。

Q19 :
東トルキスタンに住む人たちが「ウイグル人」と呼ばれるようになったのは何故ですか? 

A19: 

1921年まで文献にも「ウイグル人」と言う言葉は使われず、ウズベキスタン人、カザフスタン人などの全てのトルコ系(テュルク系)民族は「トルコ人」と呼ばれていました。 

中央アジアで文化や生活様式の似たトルコ系民族の区別をする事は難しくこの問題を解決するため、1921年のタシュカント会議で各民族ごとに呼び分けることが決まりました。東トルキスタン(今の新疆ウイグル自治区)に住む人達が「ウイグル人」と呼ばれるようになったのは昔からウイグル民族が文化の中心であったからです。 

Q18 :
11世紀にマホメット•カシュガリの書いた本『ディ•ワムヌ•ルガティ•トゥルク』の出版の経緯を教えてください。 

A18: 

これは古代トルコ語辞典で、この分野の基礎である。ウイグル民族だけの為でなく、11世紀までのトルコ系の人たちの言葉の大辞典。 

マホメット•カシュガリによって1072年にバグダッドで書かれ、1076年に編集した。それを元に1266年にアグバディという人が完成させた。 

カシュガル人なのにバグダッドで書かれたのは、自分の国で生きづらいため。当時、哲学者で政治亡命する人はとても多かった。自分の国で生きづらい時代でもあった。 

序文には、自身が王族の出であった事、自分の名前や言葉を歴史に残す為である事。トルコ語が強く美しく最も素晴らしい言語であることを証明する為に書いたと記されている。 

言葉の説明だけでなく、様々な古代の歴史、文化、政治構想が含まれている。 

Q17 :
 憲法を作り独立宣言を成し遂げたタオピク、ダモッラ、クトゥルク·ハジ・シャウキらウイグルトップの知識人たちは国の基礎を作るために、どんな活動をしましたか? 

  

A17: 

学校、新聞、組織を作る活動をしました。 

1933.7.21「東トルキスタン生命」という新聞がカシュガル教育省から出版されました。 

シャウキたちは新聞によりバラバラだった社会的状況を言語的(ウイグル語)、思想的、行動的に統一する事を目指しました。 

新聞の出版においては 

1宗教(性) 

2民族(性) 

3学術(性) 

4芸術(性) 

5道徳(性) 

6政治(性)政治的性格 

の6つの言葉を重要に考えました。 

「東トルキスタン生命」は13回出版されましたが、 1回~8回までは「カシュガルイスラム政府 出版機関 
場所 カシュガル教育省」との記載もありました。 

新聞の編集はカシュガル教育省の中のいくつかの部署が協力して行いました。 

この新聞はウイグル現代史において初めて出版された民族的新聞でもありました。 

また、小学校も作りました。同時に師範学校(教育大学)を作り、ウイグルの学生を募集し教員の育成を行いました。これは、新しい教育を行うために必要な人材を自分たちの力で作る活動でした。 

こうして民族的学校、民族的新聞、出版社という国の基礎的施設が作られていきました。 

Q16 :
ウイグル文字についての歴史を教えてください。 

A16: 

6000年前にメソポタミアでシュメール人が作った世界最古の文字を基にして「アラム文字」が作られ、それが紀元前2000年に中央アジアに伝わってトルコ系の人たちの文字になりました。 

 この「アラム文字」から「ソグド文字」が作られ、「ソグド文字」から「トルコ文字」が作られました。さらにその後、8世紀頃「ウイグル文字」が作られました。 

1280年代モンゴル帝国 元の国で、ウイグル人がモンゴルの支配階級の人達をウイグル文字で教育したことが影響して「モンゴル文字」となり、それがそのまま満州人に受け継がれて「満州文字」になりました。 

 「アラム文字」→「ソグド文字」→「トルコ文字」→「ウイグル文字」→「モンゴル文字」→「満州文字」という流れで、アラム文字は多くの国の文字に影響しています。 

 今ウイグル人が使っている「現代ウイグル文字」は「アラビア文字」で、ウイグル語を表すためにウイグル化したものです。 

 

 文字は、それぞれの国にとって、とても重要な文化といえます。 

Q15 :

  憲法はその民族の魂であり、国を作るための民族共通の価値観や哲学、文化がまとめられています。 

東トルキスタンイスラム共和国は1933年11月12日に独立宣言をしました。東トルキスタン共和国の憲法はどのようなものですか? 

  

A15: 

東トルキスタンイスラム共和国憲法は30条から構成されています。今の国際社会では宗教と政治は完全に引き離されていますが、100年前のイスラムの人々の理想的社会ではイスラム的要素であるコーランの精神がとりわけ重要でした。 

中国のジェノサイド、脅迫、大量虐殺に対してウイグル人たちが抵抗し独立出来たという時代背景があります。 

徹底したアラビア文字を勉強した人々が公平公正な憲法を作りました。 

国民の豊かな生活の為にイスラム原理に基づいた宗教的、民族的な共和国をめざしました。 

現代とは違い、憲法としての厳密性はありませんでしたが、最後まで変わらない神の法としてのコーランの要素が重要視されました。 

Q14 :

 ウイグルの精神的、文化的アイデンティティの基盤となっている 「幸福を与える智慧」という本は、どのような内容が書かれていますか? 

また、世界に現存しているものはありますか? 

 

A14: 

「幸福を与える智慧」(クダゥグ・ビクリ)は1069年に11世紀の哲学者、詩人、国家創造者である ユスプ・ハス・ハジプ(1019-1085)によって書かれました。 

カルハン帝国(840-1212)が衰退してきたころ、危機的状況を乗り切る為にこの本を書き、王様にプレゼントしました。 

 

4つの柱があり、85章 6654首の詩で成っています。 

4つの柱とは、正義幸福(国家)知恵満足です。 

王様、国家、民族、人間…国のあらゆる分野の人がどうあるべきか、細かく書かれています。 

他のトゥルク系の国でも読まれ、世界各国で研究され、翻訳されています。 

「幸福を与える智慧」は 11世紀までの倫理思想がまとめられた一冊です。1番重要な古典でウイグルの精神的、文化的アイデンティティの基盤となっています。 

 

現存している写本には、三つのバージョンがあります。 

ウィーンバージョン、パルガーナバージョン、カイロバージョンで、ウィーンバージョンは古代ウイグル文字、パルガーナとカイロバージョンはアラビア文字で書かれています。 

ドイツ、フランス、ハンガリー、ロシア、中国、アメリカ、トルコの学者達が翻訳しています。 

トルコの哲学者 ラシット・ラシマティ・アラト が30年かけて800年前の本を読んで研究し、アカデミーバージョンを作りました。 

三つのバージョンの結合体で完成されたものでした。 

 

ウイグルでは、中国の弾圧によって、書物が発禁になったり、没収され燃やされてしまっているので、今残っているものはとても貴重な文献です。 

Q13 :

東トルキスタン独立運動第一歩の第一人者として「ヤクブ•ベク」という指導者の名前が上がりました。ヤクブ•ベクの統治した独立運動の第一歩とはどういうものであったか教えて下さい。 

A13: 

1864年、ウズベキスタンからきたウズベク人 ヤクブ•ベクは、カシュガリアにて約15年間国として統治し、中国に支配されてからの100年間で初めて独立の第一歩に成功しました。 

成功の要因としては、当時中国が混乱の時期にあった事、外交や戦争の戦術に長けていた事があげられます。 

外交面ではオスマントルコ帝国の一部として認められる努力をし、その結果支援を受ける事が出来ました。イギリス(インド)からもカシュガリア国として承認を受け、外交面で成功させました。 

ウイグルの社会的発展を重視したところも評価されましたが、一方で君主制の中での社会的不満を軍事的に弾圧する事も行っていました。 

1877年、清朝のズーズータンの陰謀により食事に毒を入れられ暗殺。再び清朝に制圧されました。 

 

ヤクブ•ベクについて、ロシア,イギリス,ウイグルの各視点から書かれた本が多く出版されています。 

Q12:
ウイグルの伝統詩を引き継ぎ近代的な詩を残した ウイグルの地名をペンネームにつけた詩人、アブドゥハリク・ウイグルについて教えてください。

 

A12:

トルファンに生まれ。
32年という短い生涯を詩作と闘いに捧げました。東トルキスタンの激動の時代を社会活動家としても活躍しました。

それらの詩は、今もウイグル民族の心に生き続けています。

Q11:
 1944年11月12日 東トルキスタン共和国が独立しました。アリハン・トラ初代大統領は教育について、どのような理念をもっていましたか? 

 

A11: 

第二次 東トルキスタン共和国 アリハン・トラ初代大統領は、ウズベキスタン出身です。医師であり薬をつくる人、トルコ系医学のトップ,宗教的学者でもありました。ソ連の支配を逃れグルジャに来ました。 

1945年5月に出版の、アリハン・トラ大統領のグルジャでの長いスピーチの原稿があります。 

下記 教育についての抜粋です。 

「兄弟たちよ 同胞(国民)たちよ。1人1人 あらゆる人間は生まれながら(生得的に) 文化,教育,芸術,技術,学問などを勉強出来る能力を有する。(人間は重要な事を勉強できる状態で生まれる) 

太陽が出て1日が始まるように、すべての子どもたちは 身体と精神の中に、平等な能力を与えられ生まれ人生が始まります。疑いの余地はありません。この能力を発揮するためには、教育が必要です。教育を受けてない人は、内なる尊い能力を利用できません。動物と同じ生き方をします。これは真理で誰も否定できません。」 

アリハン・トラ大統領は、このように教育について話しています。 

Q10:
約1000年前、カラハン王国では夏の首都と冬の首都があったとのことですが、なぜ首都が2つあったのですか? 

 

A10:
夏の首都はバラサグン、冬の首都はカシュガルでした。ウイグルに2つの首都がある理由のひとつは政治的背景があり、ウイグルはアジア大陸の中央に位置しているためロシア人、アラビア人、中国人、ギリシャ人など様々な人たちから侵略されやすい国でした。首都が1ヶ所だけだと、敵が攻めてきた時に間に合わないかもしれません。そのため重要な首都を2ヶ所置いていました。 

カシュガルは今のカシュガルで、バラサグンは今のキルギスのトクマクという美しいところにありました。 

首都が2つある理由は、政治的背景と安全保障上の問題だけではなく、その他に伝統的、文化的、歴史的な背景があります。 

Q 9:

東トルキスタンイスラム共和国独立に際し、中国からの迫害に対抗するためにどのような動きがありましたか? 

 

A 9:

当時各地域に軍隊があり地域ごとに利益を考えて、まとまりませんでした。 

「我々に必要なのは政府である」と新聞で訴えがなされました。新聞は、ウイグル人,カザフ人,キルギス人が出資,ウイグルの知識人の中でもトップであったクトゥルク・ハジ・シャウキ氏を中核に立ち上げられました。 

中国からの迫害に対抗するためには、東トルキスタンとして完成することが重要でした。 

「無政府状態が続くのは危ない。我々に必要なのは政府である。」と新聞で訴えました。 

 

総理大臣であったサビット・ダモッラ氏らが内閣をつくり、東トルキスタンは国家として運営されました。外交も行っていました。イギリス、トルコに大使を送り手紙を書いたりもありました。 

大統領ホジャ・ニヤズ・ハジはカシュガルにはいませんでした。文献的証拠があります。(カシュガルから大統領がいたアクスへは500Kmあります。) 

大統領への手紙が残っています。 

カシュガルに招待する内容です。 

「我々の大統領 ホジャ・ニヤズ・ハジ様へ 

クチャからアクスまで脚を運ぶときいています。アクスの全体的利益を考えて、我々にアドバイスして頂きたい。心からお待ちしています。」 

ホータンのムハンマド・アミン・ブグラ氏(首相)にも「皆でカシュガルに集まり、この国を強くしましょう。」と大使を送りました。 

 

国を強くするための統治形態に至る道の模索があったと考えられます。しかし半年後にロシアとシュンシサイ(中国)の戦闘機によって、南ウイグルの基本的文化的中心地の一帯が空爆されました。-カシュガル地区,ホタン地区,アルトゥシ地区,アクス地区-は、全ての施設を潰されました。亡くなったウイグル人の数は、未だに把握できていません。 

ナビジャン・トゥルソゥン氏の論文によると 13万とも言われています。  

誇りである時代とともに、最も悲しい時代でもありました。 
※写真は、サビット・ダモッラ氏

Q8:
東トルキスタンイスラム共和国の政治的情勢や国家論などを民衆に伝えるために、どのような媒体がありましたか?

 

A8:
新聞がありました。

「東トルキスタン声明」(初版 1933.7.21)です。

カシュガル教育省から出版されました。中核となったのは、クトゥルク•ハジ•シャウキをはじめとする新しい思想を持ったジャーナリスト,詩人,知識人,宗教的研究者です。「東トルキスタン声明」が13回出版された後、東トルキスタン大統領ホジニ•アズ•ハジとウルムチを支配していたシュンシサイの戦争が激しくなり、新聞は「自由トルキスタン声明」にかわました(1933.11.15~1934.2•1)。通算21回発行されました。両新聞の編集者は、行方不明,逮捕されていきました。

クトゥルク•ハジ•シャウキは、東トルキスタンの最も重要な国家の父,基礎を作った人物です。

Q7:
憲法にはその国の哲学,倫理,意志,魂,価値観の核心があります。
1933年独立の第1回東トルキスタンイスラム共和国には憲法はありましたか?

A7:
1933年11月12日カシュガルにおいて「東トルキスタンイスラム共和国」独立宣言がなされました。(大統領はホジャ・ニヤズ・ハジ)
国名に「イスラム」とあるように、憲法もイスラム的でコーランの倫理観が強い内容でした。
当時、ヨーロッパに留学した人は少なく、サビット・ダモッラ,クトゥルク・ハジ・シャウキらエジプトの名誉の高い大学を出た人々が、コーランの倫理観に基づいた憲法を作りました。

 Q6:
国際社会のあるべき姿が今ほど問われる時はありません。様々な価値観,民族の中での共存がますます重要視されています。その意味からも「ウイグル人文科学研究院」は意義深い場です。根本的哲学的観点から、人間,国家,民族のあるべき姿を考える貴重な機会を得る事ができます。

 

ウイグルは1000年,2000年前から国を作ってきました。カラハン,ウイグル,クージューが大きな帝国、他16の国が作られてきました。(マウントゥン・ブグラの本で16の国旗が紹介されています。)侵略がどれほど強くても、文化的 精神的アイデンティティを守ってきました。

これまでの歴史の中で、文化的政治的な危機的状況と、それを救った人物を教えてください。
今のウイグルの文化的 精神的アイデンティティの基盤を知りたいと思います。

 

A6:
  ウイグルの歴史上有名な5人の中の1人‘ソルタン・ソトゥプ・ブーブーラハン’(901~956)はカラハン帝国をつくった人物です。仏教文化をやめた初めてのムスリムとも言われます。ここからウイグルの言葉が変化していきます。それまでの1000年位は(サンスクリット語 ギリシア語も時代によりありましたが)チャガタイ ウイグル語と呼ばれた言葉が使われてきました。中央アジアの影響により、ペルシア語 アラビア語 イラン語が増え純粋なチャガタイ ウイグル語が減っていきます。

  ソルタン・ソトゥプから100年ほど後に、典型的民族主義者‘ユスプ・ハス・ハジプ’が登場し、民族主義のための本『幸福を与える智慧』を著します。彼はウイグルにおける11世紀最大の哲学者,詩人,国家創造者です。ユスプ・ハス・ハジプは意図的に200語ほどのアラビア語,ペルシア語を排除しました。彼は文化的,政治的 危機的状況(ー海外からと言うより 2つに分かれたカラハンをまとめたいー)からカラハン帝国を救いました。危機的状況を乗り越える為に書かれた11世紀最大の本が『幸福を与える智慧』です。(カラハン帝国は70年続きました)

  ウイグル民族がウイグル民族としてこれまで存続出来たのは、ある意味この本のおかげかもしれません。古典,文献は民族の柱です。ユスプ・ハス・ハジプがこの本を書いたお陰で、今もウイグル人は独立に向けて動き続ける事が出来ます。ウイグルの精神的 文化的アイデンティティの基盤と言えます。

Q5:
ウイグルは1933年に東トルキスタンイスラム共和国,1944年に東トルキスタン共和国として独立しています。
第1回はホジャ・ニヤズ・ハジ大統領,第2回はアフメットジャン・カースミー大統領と聞いています。二人の大統領以前に活躍した人物について教えて下さい。

A5:
1911年、クルムという場所でウイグル開放の為に侵略者と戦ったトゥムル・ハリパ氏があげられます。彼は、その時代の政治のトップ、大統領と考えてよいです。戦争に勝利しましたが、その後中国人を信じてしまい、
=「一緒に協力しましょう」(中国)=
トゥムル・ハリパ氏は逮捕、暗殺されます。暗殺の首謀者は陰謀思想を持った中国人ヤンゾンシンでした。彼は、ウイグル文化を潰すため、あらゆる知識人を殺しました。
ウイグルの代表的文学者,詩人のアブドゥレヒム・オトゥクルの代表作に『こんせき』(道)という著書があります。『こんせき』にはウイグルの信念が書かれています。祖父母達が歩んだ道に沿って生きる民族のアイデンティティ,価値観や道徳観が体系的に書かれています。その信念はずっと続いています。アブドゥレヒム・オトゥクルは、この著作の中にウイグル開放のために戦ったトゥムル・ハリパ氏についても書いています。

Q4:
中国最大の侵略者とその背景について教えてください。 

 

A4:
かつてウイグルの3分の2にあたる地域はカシュガル国でした。大統領ヤクブ・ベクは15年間国を統治しました(ベクは国家を与える,国のトップの意)。首都カシュガリアは、今のウイグル文化の南の中心地です。 

1880年に清が来ました。中国の知識人らが「我々はウイグルを獲得しない限りは(中国の)安全は保証できない」として、清朝がウイグルを侵略することとなった。その時の大統領ヤクプは、中国と手を組んだ者らに暗殺されました。(ウイグルのトップは暗殺され続けてきました) 

中国最大の侵略者に清朝のズーズータン(1812-1885)が挙げられます。彼はウイグルを侵略し、王に報告書を出した。「私はウイグルを侵略しました。完全に殺し終わりました。」侵略して殺す事を誇りとした。今の中国もそうです。

Q3:
「東トルキスタン共和国」の国歌を作詞作曲した方の名前を教えてください。

A3:
マムティリ・トフティハジ氏
  ペンネームは【タオピク】
※正しい道を歩む人の意

 Q2:
ウイグルにおいて社会改革にも影響を与えるような新しい教育を体系的に行った方はいらっしゃいますか?

A2:
「アカイド・ゾーリヤ」(規則的理念)を著したアブドゥカディル・アブドゥワレィス・オグル氏があげられます。ダモッラとも呼ばれています。教育の改革を訴え学校も作りました(2年で25校)。1925~1935年にかけ、共和国思想の新しい教育が行われました。カシュガル中心に大学の形態も作られ、ダモッラ氏は大学の先生としても教育活動にあたりました。1926年、ダモッラ氏が自分の部屋で暗殺された後は、弟子たちが学校教育を続け、1933年の東トルキスタンイスラム共和国の独立につながりました。 

Q1:
有名な文学者が逮捕され行方不明になっているときいてます。ウイグル文学文化において重要な功績のあるお一人を教えてください。

A1:
バスール・シュクリ先生は、ウイグルの古い文学(5~10世紀)を研究、現代ウイグル語に書いて研究書を出されました。有名な著書に「古典ウイグル文学」があります。ウイグル文化の内実、国家論的側面、ウイグルの倫理学について高いレベルの仕事をされました。バスール先生が作った教科書に国家分裂的、ウイグル独立の思想が含まれている罪で、2017年1月に逮捕され今も行方が分かりません。